一般コラム
【グルタチオンに想いを馳せて】グルタチオン、発見 ——第三歩:ヒトの中で——



地図のない旅の今ここは
グルタチオン研究が「ヒト」へと踏み込んだ地点
こんにちは。WAKUインターン生の下口慶夏(しもぐち よしか)です。
私は第二歩で、ようやくグルタチオンのカタチに辿り着きました。グルタミン酸、システイン、グリシン。三つのアミノ酸からなる小さな分子です。論争の末に確定したその構造は、美しく、そして納得のいくものでした。そこで、次に気になったのは、この物質が体のどこでどのように働いているのかという点でした。
もしグルタチオンが、酵母という限られた生物の中だけで見つかった物質であったなら、ここまで多くの研究者が時間と労力を注ぎ込む理由はなかったはずです。構造を巡る論争も、これほど長引かなかったかもしれません。
論文を読み返すうちに、私はある記述に何度も目が留まるようになりました。それは構造式でも分析値でもなく、ほんの一行、さらりと書かれた一文でした。論文の中で、ホプキンスは次のように記しています。
“conclusive evidence has already been obtained for its presence in red blood corpuscles”
(Hopkins, 1929)
グルタチオンは、ヒトの赤血球の中に存在する。しかも、それは「疑いようのない証拠」として示されていたのです。
この一文は、グルタチオン研究の舞台が「酵母」から「ヒト」へ移ったことを示していました。
赤い細胞の中へ
赤血球は、私たちの体の中でも、少し特別な細胞です。核を持たず、DNAもなく、新しいタンパク質を合成することもできません。それでも、私たちの体内を巡り、酸素を運び続けています。
酸素は生命に欠かせないものですが、使われ方を誤ると細胞を傷つけてしまう一面も持っています。そのような環境に常にさらされている赤血球の中で、グルタチオンが確かに存在しているという事実は、非常に重要です。
Hopkins は1929年の再検証論文において、グルタチオンが酵母だけでなく、ヒトの赤血球からも同様に分離できることを示しました(Hopkins, 1929)。これは単なる検出報告ではなく、同一の物質が、異なる生物種・異なる細胞種に共通して存在することを意味していました。
酵母というモデル生物から、動物へ、そしてヒトへ。
グルタチオンはこの瞬間、「代謝によって生み出される特殊な物質」から「多くの生物に共通して存在する、基本的な細胞の成分」へと、その位置づけを変えたのです。
量が語ったもの
もう一つ、見逃すことのできない点があります。それは「量」です。
ホプキンスはグルタチオンを、細胞内に存在する、硫黄を含み、他の分子と反応しやすい性質をもった分子の中でも、最も主要なものと表現しています(Hopkins, 1929)。
当時の生化学では、微量に存在する物質は調節因子や副次的成分として捉えられることが多くありました。一方で、大量に存在する分子は、細胞の存続そのものに関わると考えられていました。グルタチオンは、明らかに後者でした。
もしこの分子が、たまたま存在する副産物にすぎなかったのであれば、これほどの量で、しかも多様な細胞に共通して存在する理由を説明することはできません。私はここで、グルタチオンを「補助的な物質」だと思っていた見方が、大きく変わりました。グルタチオンは脇役ではなく、むしろ細胞という舞台を支える基盤の一部だったのかもしれません。
壊れやすさという手がかり
ところが、グルタチオンは実験室では非常に扱いづらい分子です。水溶液中で煮沸すると分解し、空気中では容易に酸化され、純粋な形で取り出すほど不安定になります。
ホプキンス自身も、純粋なトリペプチドとして分離されたグルタチオンが、試験管内では驚くほど壊れやすいことを詳細に報告しています(Hopkins, 1929)。
それにもかかわらず、ヒトの赤血球の中では、この分子は確かに存在し続けています。この事実は、重要な示唆を与えてくれます。グルタチオンは、それ一つだけで働く分子ではありません。細胞という環境(他の分子、金属イオン、酵素、酸化還元状態など)に守られ、支えられて初めて、本来の姿を保つ分子なのです。
試験管の中では不完全で、細胞の中で完成する。試験管の中では本来の姿を保てず、
細胞の中でこそ、その役割を果たす分子でした。そのような分子が、確かに存在していました。
問いの転換点
「何をしているのか」へ
グルタチオンがヒトの赤血球で確認されたことは、研究の問いそのものを変えました。それまでは、「何からできているのか」「どのような構造をしているのか」が研究者たちの主な関心でした。しかし、ヒトの体内に大量に存在することが明らかになると、次の問いが避けられなくなります。
この分子は、何をしているのか。
この瞬間、グルタチオン研究は、純粋な化学の領域から、生理学や医学の領域へと足を踏み入れました。この時代には、「抗酸化」や「美容」といった言葉はまだ一般的ではありません。しかし、後にそれらの概念へとつながる前提条件は、すでにすべて揃っていました。
探究に、潜る
ヒトの中にある。しかも、少量ではありません。壊れやすいにもかかわらず、守られて存在しています。グルタチオンは、静かに、しかし確実に、「生命を維持する分子」としての位置を占め始めていました。
では、この分子は、細胞の中で何から、何を守っているのでしょうか。
次回は、グルタチオンが細胞の中で何から身を守り、何を支えているのかに目を向けていきたいと思います。
参考文献
関連記事
